脱自分になれる場所

2025年1月2日

近所のタリーズコーヒーに来た。ここは一番落ち着く場所。お気に入りの席に座ってこれを書く。
人と交わるのは苦手なくせに、自分の部屋に閉じこもっていることはできない。ここに来ても店員さんに注文する以外、会話はない。でも人がいる。周りに人がいる。皆が思い思いの作業に時間を傾けている。

外の景色を眺めてしばし今に留まる。場の力。この場所に来るといつもこの力に助けられる。イライラして仕方ないときには、あれこれ作業するのではなくじっと座って、ただ外を眺める。それだけで気持ちが落ち着いてくる。家ではうまく片付かなかった仕事が、流れに乗るように進む。何よりも心地良い。自分の力でやっているのではなく、すらすらと今と一体になって進めているので、抵抗がない。ここには極端な言い方をすると自分がいない。空間、光、息吹、体温、呼吸、触感、まなざし、生活の音、人の気配。あらゆるものを同時に感じている。

この場に来ると、メンタルヘルスが保たれる。不思議だけれど、鬱々としていた世界から別世界に抜け出たようになる。一体何が起きているのだろう。科学的に説明すると、脳の前頭葉がどうとか、扁桃体がどうとか、解説できるのかもしれない。少なくとも今はそれを調べる気がしない。この感覚に浸っていたいから。パソコンを打っているのに脱自我感がある。窓から見える空の青が澄み切っていて、日の光がほどよくまぶしく目に入って、体全体を易しく包み込む。自転車で通り過ぎる人、さっと飛び立つ鳥のすばやさに目を奪われながら。先日、アランの幸福論を読んだ。「不幸な人は自分のことにばかり気を取られすぎなのだ、本を読み過ぎなのだ、もっと遠くを見よ」と書いてあった。まさに幸福のヒントを得ようとこの本に一点集中していた自分に指摘されたようで、くすっと笑ってしまった。自分に忙しすぎる、自分にとらわれすぎる、自分が好きすぎる?嫌いすぎる?どこにいっても自分、自分、自分。
ここに来ると、その自分から離れていられる。窓の外には、ドラッグストアとか、カラオケボックスとかが入った雑居ビルが並んでいるだけなのに、今っていうのはこんなに美しいのかと思って、それらの看板に見入ったりしている。

この大切な場所で、いつか赤ん坊と出会った。
コロナ禍だったが、食事をするために私はマスクを外していた。赤ちゃんは若いお母さんに連れられて、私の右隣の赤ちゃん用のいすに座っていた。私が微笑みかけると、その子は不思議そうな顔をして見ている。そのうちにこちらを凝視し始めた。釘付けになってしまった。お母さんがそれに気づいて、「あんまり見たら食べずらいでしょ」と私を気遣い、赤ちゃんの座っている向きをかえた。赤ちゃんは私に背を向けるようになって目が合わなくなった。すると赤ちゃんは一生懸命後ろを振り向きながら、私の方をさらに凝視し続けた。大変な体勢である。見るにみかねて、お母さんは、「そんなに見たいの?どうしちゃったの?」と気を紛らわせようと試みる。それでもこちらを見続けるので、とうとう真正面に席を戻してあげた。他の人間は終始マスクをつけている中で、私はマスクを外して、赤ちゃんにむかって満面の笑みをうかべていた。鼻もあり口もあり、白い歯をむき出している。それが珍しかったのではないだろうか。首が疲れてきてしまって、彼は椅子のひじ掛けにひじをついて自分の顔を載せて、支えるようにしてこちらを見つめ続ける。妙に聞こえるかもしれないけれど、私たちは何か通じ合ってしまったのだと思う。人間が人間と通じ合う。ごく自然の出来事である。それがこの場で起きた。私はあの日のことを強烈な思い出として胸にしまっている。あの子ももうずいぶん大きくなっただろう。

今日は年明け2日目で、特に静かな空間。内省好きな一人客が多いよう。皆、何を思い、大切な時間を過ごしているのだろう。ありがとう、この場所。心から感謝している、脱自分の場所。

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