考え続ける過程で

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池田晶子様

あなたに初めてお便りを出します。これはあなたの嫌いなブログであって、そんなところにお手紙を書くなど無礼かもしれませんが、こうして書かせていただくことをお許しください。私はあなたの出版されている本のほとんどすべてを読み終えて、夢中になって読み終えてもなお、あなたのお伝えになったことをわかったと言えるようになっていません。たくさん読まないと、しっかり読まないと、何度も読まないとわかるようにならないと思っている時点で、けっしてわかるようにならないのかもしれません。あなたの本を読んで一番驚いたことは、自分が人生の不思議についてちっとも考えないで生きてきたことです。生きてこれてしまったことです。『あたりまえなことばかり』に、まず驚かなければいけないと書かれていたことにはっとして、自分が生きていることのとんでもなさというものに少し触れました。枠の外に出た感じでした。何丁目何番地を歩いている自分が番地もなにもない、名前のない場所に放り出されました。放心状態でしばし止まりました。自分は生きているのが当たりまえ、その上で思い通りにならない人生、ままならない暮らし。そう思っていたところから、見渡せば色々な種類の花が咲いていて、緑などあって、沢山の生物がいる地球という場所に生まれている自分。その地球は太陽がなくては存在しえない、太陽というのがまたとてつもなくでかい。地球と太陽だけでも終わらない、宇宙にはとんでもない数の星が存在している。太陽が毎日昇っては沈んでいくのをあらためて立ち止まって考えればとても驚異的なことであり、気が遠くなるような間それが繰り返されて続けている。そのことについてほとんど考えたことがなかった。考えても仕方ないと思っていました。ネットで何度か調べましたが、その仕組みを知ったとしても、「わかったようなわからないようなだけど、何かすごいな」という感じで、それで一旦終わってしまう。続いていかない。不思議が続いていかない。生活の悩みに押し流されていくといったらいいわけでしょうか?不思議を不思議のままどこか頭の片隅においやったままこのまま死んでいくのだろうと思ったりします。わかっていませんよね?

生活の中で驚きを覚えたとしても、それは何というか一瞬です。立ち止まって花を眺める。先日などは曼珠沙華の花を見て、まじまじと見て、なんという花なんだこれは?どうしてこういう構造になったのだろうと驚く。そこでまたネット。そこではこの花は自分の庭には植えてはいけないらしいとか、何等かの理由で不吉な花と言われていることを遅ればせながら知る。どうしてこの美しい花にこのような解釈がつくのだろうかと、人が何かを解釈すると余計なものがついてくるなとかそんなことを思いながら、一旦それはそれで終わりました。自分の悩み、人としてどうやっていきていこうかというところにきて、その曼珠沙華に感じたとんでもない不思議さ。花というのが何であるのだろうという漠然とした疑問はすでに人が共通してもっているものかもしれないですが、私には40を過ぎてやっとその気持ちになりました。そうした花に対する感情をもって、ひるがえって自分という人間はどうか?人間の不思議さはどう説明する?というところまでいかないといいますか。人間について同じように神秘を感じて人生をいとおしくなったりするところに至らないのです。それは完全に自分の未熟さなのでしょうか。考えていないからでしょうか。自然の前で謙虚になる気持ちが人間の社会で暮らすうちに薄れていってしまうのです。そしてまた逃げるように自然を眺める。全体が調和していないのです。とぎれとぎれなのです。これが今の自分の状況です。一時の激しい感激。そしてやってくる絶望。そんなことを繰り返しているのは何か違うと感じます。本来はもっと平穏なものでしょう。本当の意味で驚いていないのでしょうか?また書いても良いでしょうか。

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