今日、祖父の残した日記を読んでいた。
あまりにすごいので親戚にも共有して、一緒に驚いた。
人に見せようとして残したものではないと思う。自然との触れ合いの喜こびを、日々の労苦を歌にして詠んである。その数がまた夥しい。祖父が日々の営みをいかに大切にしていたかを知った。仕事やお金のことも細かく綴られている。生きることがいかに厳しいものか、そう書いていなくてもひしひしと伝わってきた。祖父のことはほとんど知らない。幼い頃に何度か遊んでもらったことはあるが、どんな人であったか、詳しく聞いたことはなかった。しかし、この日記を読んで、こんなに時間が経った後で、祖父のことが少しずつ分かっていくような気がする。分かった気がするというのではなく、祖父と再び関係を結び直しているように感じる。今、祖父の存在を近くに感じている。
日記の中に一緒に遊んだ日の記録があった。
「おじいさんと呼ぶ、孫がかわいい、よき日」とある。私が4歳のときのこと。私は祖父の毛むくじゃらの手が苦手で、母が不在だったことから泣き叫んだ記憶だけが残っていた。しかし日記には、公園に連れていき、楽しく一緒に遊んだと書かれており、泣く孫に手を焼いたなど一言も書かれていない。
祖父がこうして日記を残してくれていなかったら、私はずっと祖父に申し訳ない気持ちを抱えたまま過ごしていたかもしれない。
わたしは日々、自分のセルフモニタリングとして睡眠の記録やその日の気分についてメモを残している。手帳にも何やら色々書いている。これを例えば誰かが読んだら、どうだろう。その人に何か感銘を与えるようなものがあるか。皆無である。実に皆無である。極端な比較ではあると思いながら、日々自分の綴るものに少しは目を向けようと思えた。それは、人に見せるものとして書くというのではなく、自分に対しても、自分の深いところから書くことができるのではないかということだ。自分に本当に向き合ったものを書くこと、それは容易ではないようにも思える。
日記は父が大切にしていたものだ。ずっとそこにあったのに、こんなに長い年月を経て、ようやく私が発見した。それまではそこに何かを見つけることができなかった。
亡くなって長い年月が過ぎた後で、祖父が大切なことを教えてくれている、そのことばにようやく気付けるようになったのだと思う。
日常のかけがえのなさ
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