池田晶子様
私は今あなたのご著書を再読しております。
池田さんの本はほとんどを持っていて全部読み終えて、時々読み返している状況なのですが、実はわかったと思っていたところを再読すると、全然わかっていなかったことに気づいて、本当に読んでいたのかが疑わしくなるほどです。
かつてあなたに宛てて素晴らしい手紙を送られた若い読者の方々とは雲泥の差で悲しくなります。再読している本の一つが『死と生きる 獄中哲学対話』(池田晶子・陸田真志 著、新潮社)です。
今はこの本を繰り返して読んでいるような状況です。暗がりを照らしてくれる光となっています。ここにあなたの言葉を再発見しました。
「わかった」そのこと、絶対としてのその質を、この相対界、この人生において生きること、生き通すことの、いかに困難であることか。「悟後の修行」が大事です。「努力」という、古臭いような言葉で私が言おうとしているのも、そのことです。
人は、一度わかったことを、忘れます。意識的に、自覚的に、努めない限り、わかったことを忘れてしまうのです。独房の中といえど、そこも人の世ですから、大なり小なり雑音は届くでしょう。そのような雑音を雑念として取り込まずに、自分を維持していけるかどうかが、分かれ目です。
自分は悟ったわけではないので重ね合わせることはできませんが、一度わかったと思ったことを、あのときわかったはずなのに・・・と思っていた自分の何と浅はかだったことかと、反省させられ、また勇気づけられました。
池田様も、陸田様ももうこの世にはいらっしゃらない。かなたの世界にいらっしゃる。しかしながら、私はこの本を読んでいて、まざまざとこの、目の前で語られていることばが生きていると感じます。作者はお二方とも亡くなられていることが、信じられないというか。目の前で語られていると感じられるこの感覚はじゃあ、何なのだろうと、絶句します。ことばの力と言われるのは、この絶句の感覚でしょうか。この本をきっかけに、本棚に半分読んでそのままになっていた『パイドン』を読み始めました。『ソクラテスの弁明』も引っ張り出してきて読もうと意気込んでいます。あらためてことばと向き合って、自分の人生と向き合って、今度は逃げずに、本気で向き合おうと、思っています。
この「わからない」と思っている自分をじっと見つめていると、やはり自分はできるだけ「快適に」長く生きていたい。楽しく、できれば自分が思った通りに、夢がかなったり、体調がよかったり、いい人に囲まれて何かいい感じに人生が続いていけば、それが良い人生だと思っている現在進行形のこの感じに気がつきます。それは社会的にも(多分)良いこととされていますし、その肉体的なところや物質的なところへの執着感は、たぶんですけれど、すごいところまで来ている感じがします。このまま突き進んでいくとちょっと怖いです。今自分が科学技術が発達した日本という先進国に住んでいて享受している清潔で便利で何でもある暮らし(事実、100均の品ぞろえのすごさ!)、そうして生きてきた身で言うのもなんですが、じゃあ、それを今根こそぎ奪われたら生きていけるのかと言われたら絶対に生きていけないですが、それでも、ちょっと、どこかでボタンの掛け違えがあって、世の中が、「そっちではないんでない?」という方向に進んでいる感じは、鈍感な私も否応なしに気づくレベルまで来ている気がします。往復書簡がかわされていた1998年時点の比ではないというか、そこからまっしぐらに来ている感じがします。
考えてみますと、自分が世の中の「大人」の世代になっているのにこんな傍観者みたいなことを言っている時点で、お前の責任もあるでしょ、と言われたら本当にそうです。今、もし、お二人がご存命でもし、今の現状をご覧になったら、どんな風に語られるのだろうと思ったりして、助けてほしい気持ちでいっぱいです。
ともかく、まずは自分の足元から、できることをするしかないのでしょう。できることとは、自分が正さなければならないことに取り組み、認識しなければならないことは忘れずに認識し続けていくこと。善く生きるとは何なのか。自分は本当に善く生きているかと日々問いながら、自分にも人にも接していく。社会や世の中というものに流されるのではなく、立ち止まって、日々、考えて生きていく。そしてそれを行為で示す。自分が良い人間になっていかなくては始まらないのだ。自分が今世の中のことを先のように語ったことも、自分の中の質がこのような世の中の傾向をとらえて、そのことのみを語っているのかもしれない。自分の中にあるものしか見えない。確実に今の世の中が良くなっていることも認めねばいけない。そうですね。多様性が認められていなかった時代に比して、今はマイノリティーと呼ばれている人が生きやすい世の中にするように努力している人たちがたくさんいる、それは先人の努力の積み重ねの中にあるのだから。自分が今の世の中がとんでもないみたいな風に、先ほど書いたことも、私の内面が映し出している虚構なのかもしれない、観たいものだけを見ているのかもしれない。自分はどうなんだ?と、思考がエンドレスになってきてしまいました。この辺で今日はやめておきたいと思います。
実はこれでも少し清書をしましたが、読むに堪えない文章でしたら、申し訳ありません。ご著書から沢山のことを感じ、振り返りながら、自分の人生や世の中のことを考える機会をいただけております。まずは足元から見直して考え続けます。本当に心からありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。


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