人格

くさくさとした気分の日がある一方で、何だか気持ちが平らで嬉しいも悲しいもなくぼんやりと普通のときがあるのはどうしてだろう。
「憂鬱」だと思ったなら、それはどこまでも続いていく。口に出そうものなら、本当に不思議なくらいに連鎖していって、どんどん憂鬱なことが思い出される。会話の相手もその話に乗ってさらなる憂鬱話へ発展する。ああ、この辺でやめておいた方がいいと、どこからか制する力が働く。

楽しいはずの旅の途中でさえも、憂鬱は襲ってくる。バスがなかなか来ないとか、店員の態度が横柄とか、せっかくの食事なのにお腹がへっていないとか。不平不満を探したらきりがない。そう感じているのがまさに自分自身であることの憂鬱。憂鬱の生みの親は自分自身なのだ。自分の人格のどうしようもなさに憂鬱は深まるばかり。数日間このドツボにはまっていたものだから、普通は上等なのだ。普通こそ平穏だ。嬉しいも楽しいもなくて良い(つまり、その対極もない)ので、この何もない普通の静かな心地を味わっていたい。
いつまでも。

コメント

タイトルとURLをコピーしました