カラマーゾフの兄弟を読み終えて

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ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟をようやく読み終えた。
自分のためにも、読み終えたばかりの感想を書いておきたい。

結局、読み終えるのには8ヵ月程かかった。上巻を読み始めて3分の一くらいのところで、本棚に寝かしてしまった。何度も手に取ろうとしたが、できなかった。放置すること半年。読まずに死んだら後悔するかもしれないという思いが背中を押して、再度読み始め1ヵ月程でようやく上巻を読了。本の帯にも書かれていたように、上巻を読み終わることに苦労したという人は多いのかもしれない。中、下巻を読んでいる最中に、こんな本だと最初に知っていたらもっと早く読んだのにという気持ちになった。でも、そうしたことは過程の話で、私にとってはこのタイミングであったのだろう。若いときに読んだとしても、到底読み通せたと思えない。今この年齢になってようやく何かしらを受け取ることができたのではないか。わかったと言えるのかはわからない。わからなったとも思わない。感動したという一言では片付けられない。ただ、主人公を主人公そのものとして感じたということは自分にとって驚きでもあった。ドストエフスキーが物語として語った人物としてではなく、その人間を目の当たりにした。

最近は調子が良くない日が多く、たびたびパニック発作に襲われるのだが、その最中は本当に恐ろしい思いをする。自分の頭がおかしくなってしまうのではないかと、居ても立っても居られない。先日の発作は真夜中に起きたので、外に出るわけにもいかない。外の空気を吸って収まるのを待つこともあるが、その日は窓も開けられなかった。とっさに自分が心から信頼できる人のことを思い出そうとしていた。部屋に飾った祖父の写真がまず目に入った。祖父のことを思った。そして亡くなった父のことを思い出した。それはパニックになるときもそうでないときもたびたびやることだ。次の瞬間に私はアリョーシャを思った。アリョーシャがいてくれると思った。心臓の鼓動がほんのわずかでも落ち着いていくのが感じられた。子どもの心を失いかけた少年に彼はいつまでも待つ姿勢を見せる、見捨てずに見守る、語りかける。彼の眼差しを感じるようだ。私はその存在に救われた。自分の恐ろしい未来への不安がほんの一瞬でもやわらぎ、見捨てられてはいないという小さな希望に包まれた。このような読書の経験は初めてかもしれない。

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