だまされたと思って

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「自分が探していることばを自分で書くことができる」
「自分が探していることばは自分の中からこそ出てくる」
「本を読み漁るよりもよほど確かなことだ」
あるところでこのようなことを言われたのを聞いたときには半信半疑だった。
まあ、自分の内面と向き合うといったことは、内省ライフとしてはこれまでもやってきていたつもりだったし。

ところが、先日、自分が悶々と悩んでいることを一旦おいておいて、哲学書を読んでいたところ、何となく落ち着かなくなってきた。今の自分にとっては、生活の中でやらなければならない、何とかしなければならないことが目白押しで、本を読んでいても落ち着かない。

そこで、気分を変えて、行きつけのカフェに行って再度その本を開いて読もうとした。
自分の見つけた良きことばをメモするために、新しいノートも買ったりなんかして、座った。
そうしたところ、いつものように瞑想のような時間がやってきた。
カフェの片隅で視野がスーッと開けてきて瞑想がはじまってしまう。

読書をするかわりに、するする、するすると、新しく買ったノートに何やら書き始めた。哲学の本のメモを書くつもりで買ったノートだったが、書き始めたことは自分が今追い詰められている、追い込まれている状況について、どうやって打開していったらいいのか、についてだった。手が書き始めていた。

とりあえず、それに任せるままにしていた。とても不思議な感覚だった。30分くらいしか時間がなかったので、集中力がマックスになっていたのもよかったのだろう。自分の家でうだうだとしていたら、このモードに入れない(自分の場合)。公共の適度にうるさい、適度に人のいる空間に身をおいたことで始まった自分との対話。そこには、もちろん、他の専門家の方からの助言やこれまで本で読んだこと等の助けを借りたことばが綴られているのだが、何かが違う。ちょっと、突き抜けた感があった。

ここで、先ほど言われていたことが少しわかったような気がした。自分が必要とすることばは、自分の中から生まれるということ、それを体験した。そのことをシェアしたく、今、これを書いている。

とにかく、何か書き出していって、メモでもいいので、書いていくと、そのつっかかるところが、思考かもしれないし、何か雑念かもしれないけれど、書いていくと突破していく瞬間があるように感じる。それを家で出来る人は家でできるのだと思うけれど、私の場合はこのカフェ。

読書を積み重ねていくことで、自分が必要としていることばに出会うことももちろんある。その積み重ねも経て、今の自分がどうしたらいいのか、直接の直球の答え、それは自分自身の中にあると思った、とても貴重な体験だった。だまされたと思って、これからもやっていけたらとおもう。

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